黒野城物語
第一話
黒野には善政を尽くした立派な殿様がいた
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本丸跡は高さ約5.4mの土塁に囲まれ、たくさんの桜が植えられていて市民の憩いの場になっています |
岐阜大学や大学病院のある文教地区として、または東海環状自動車道岐阜インター建設予定地として発展する黒野校区。
そのルーツともいえるのが豊臣政権期から江戸初期にかけて存在した黒野藩における町づくりでした。
その中核になったのが現在も城跡公園として往時の面影を残す黒野城です。
築城から400年あまり、現在でも本丸を囲む土塁や堀、石材など往時をしのばせる遺構が現存しています。
平野部に存在した城の遺構が現在も残っているのは極めて珍しい例で、これは城主であった加藤貞泰(さだやす)公の領民に尽くした民政と無関係ではないのかもしれません。
しかし城下町を含めた黒野城の実際の姿や加藤貞泰公については歴史に埋もれてしまい不明な点も多く、あまり伝わっていないのが実情です。
平成22年から黒野では歴史好きの地元有志や各分野の専門家が集まり「黒野城と加藤貞泰公研究会」が発足し、埋もれた資料の発掘や定期的な会合で活発な意見交換が行われています。
このページでは研究会の調査などによって明らかになってきた黒野城と城下町の姿や加藤貞泰公の功績について紹介します。
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黒野城の内堀は雨が多い時期は水を湛えた堀となっていて往時を忍ばせています |
※この内容は中日岐阜ホームニュース2011年5月号〜10月号に連載された記事に加筆・修正したものです。
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