黒野城物語

第四話

黒野のお殿様 加藤貞泰公 その2

関が原の戦いで武功を上げた若き黒野のお殿さま、加藤貞泰は様々な政策を行います。経済を活性化するために楽市を許し、商家の借地料を5年の間免税しました。
また長良川の洪水に苦しむ領民のために堤防を作ろうとします。この堤防は貞泰が加藤左衛門尉(さえもんのじょう)と名乗っていたので『尉殿堤(じょうどのつつみ)』と呼ばれ、 現在でもわずかに跡が残っています。
同じような尉殿堤の跡は安八町にも残っており、貞泰が治水に心を砕いていたことが偲ばれます。
貞泰を中心に加藤一族、家臣団、領民も団結して新しい町づくりに意欲的になっていたことでしょう。しかしそれは長くは続きませんでした。
1610年に突然、貞泰は米子(鳥取県)6万石へ加増されての移封となります。尉殿堤が長良川を挟んで、隣の加納藩・奥平信昌の堤防より高かったために反感を買い、 信昌の妻である徳川家康の娘・亀姫が家康に願い出て移封させられたとも言われています。
尉殿堤は結局完成されず、その後も領民は水害に苦しむことになってしまいますが、その志は立派な記念碑となって現在に伝わっています。
貞泰はその後さらに伊予大洲(愛媛県)6万石へ移封となり、明治まで約250年続く大洲藩の基礎を築き1623年に44歳で亡くなりますが、その生涯で一番長く滞在したのは黒野でした。
領主を失った黒野城は廃城となり、その後は黒野別院の門前町としての歴史を歩むこととなります。

kinenhi.jpg(39605 byte) 鷺山に建つ尉殿堤記念碑。
碑の道を挟んだ西側にはわずかに堤の名残があります。

※この内容は中日岐阜ホームニュース2011年5月号〜10月号に連載された記事に加筆・修正したものです。